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大野城跡
天正12年(1584)、小牧・長久手合戦の時、下奈良、宮後、河田の砦とともに秀吉方の砦として利用され、その後大野佐渡守等が居住したと伝承されている…
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河田城跡
天正12年(1584)、小牧・長久手合戦の時、秀吉が小牧山の徳川・織田軍に対して構築した城砦の一つであり、昭和38年に護岸工事のため湮滅した。 県道…
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重吉城跡
尾藤源内の城と伝えられる。天正12年(1584)、小牧・長久手合戦の時、徳川・織田軍の小牧山の付城として清洲と小牧を結ぶ連絡確保の役割を担っていた。…
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一宮城跡
平重盛の子孫関氏は熱田の宮司をたよりに一宮の神主となった。以後数代この地に住み、代々真清田神社の神主をしていたが、社領を守るため城を構えた…
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下奈良城跡
天正二年(1584)、豊臣秀吉軍と、織田信雄・徳川家康連合軍が対峙した小牧・長久手の合戦のおり、尾張地方北部のこの地域は、両軍の最前線地域とし…
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笠懸の松(下り松)
日本武尊が伊吹山征伐の途中、この地の下り松に笠を懸け休息し、南の戸塚の剣研石(七つ石)で剣を研ぎ、北の花池の蓮田に咲く花をめでられたと伝え…
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七つ石(剣研石)
大小18個の岩石の中に、露出顕著な岩塊が7つ見られるので、七つ石の名称がある。日本武尊が熱田の森(熱田神宮)から伊吹山に向かう伊吹山征伐の…
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佐吾平の碑
天保年間(1840年頃)に江戸参勤のため、明石藩主松平斉宣の行列が萩原宿近くを通りかかったとき、暴れ馬を取り押さえようと行列を横切った萩原宿の…
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照手姫袖掛け松
室町時代中ごろ、浄瑠璃や歌舞伎などで名高い照手姫が常陸(茨城県)の城主、小栗判官助重と京都へ向かう鎌倉街道沿いの同所で、小袖を掛けて休息し…
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小塚直持の墓碑
幕末から明治の初めに生き、本居大平の門下で国学、漢学などを学んだ小塚直持の墓碑。学者であり文人でもあって、尾西地方の優れた文化人であった。…
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誓阿の墓碑
冨田村出身の誓阿上人は、浄土宗西山深草派本山誓願寺大勧進職を勤める傍ら、故郷冨田の阿弥陀堂・地蔵寺の荒廃するのを嘆き、これをあわせて建立し…
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鵜飼吉左衛門の碑
水戸藩士、鵜飼吉左衛門は、息子の幸吉とともに激動の幕末の時代に重要な政治・外交問題に深くかかわり、日本の将来を憂い奔走した尊皇攘夷派の志士…
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奥村永福公 出生地の碑
戦国武将に前田利家に仕え、数々の武勲をたてた奥村永福公の碑。前田家の命運をかけた戦となった、天正14年(1586)末森城の合戦での奥村公の功績は特…
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墨宇吉の像(念敬寺)
艶だしの技術で尾州織物を広めた墨宇吉の像がある。 墨宇吉の像は、念敬寺境内の南西角にある。道路からも見ることができるが、像が東を向いてい…
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川合玉堂生誕の碑
明治6年に木曽川町で生まれた。14歳で京都・四条派に入門し、後に上京、狩野派の橋本雅邦に学び、自身の画風を確立した日本画の巨匠。昭和15年に玉堂…
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皇太子殿下 御野立所碑
明治44年、木曽川で実施された特別騎兵渡河演習の際、この地で御上覧された。 堤防道路西側に石碑と説明板がある。
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丹羽玄塘墓碑
北方川並奉行所調役(長)となり、郷土史家として『尾張塘叢』を著し、59才で没した。 北方町の西本郷共同霊園内西側に、墓碑と説明の石碑(平成5…
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井口唯志の碑
貧しく寂しく苦しき中にも志をまげず28年の生涯を終えた井口唯志の碑。大正から昭和にかけて執筆発表した小説・随筆は、たぐい稀にみる才能に溢れそ…