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大野渡船場跡
尾張国葉栗郡大野村から美濃国羽栗郡河田島村へ通じる渡し船。万延元年(1860)までは、幕府の認める渡しとして栄え、明治以後は、渡船組合で運営を…
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人磨塚
古来河田の四つ塚の一つで、葉栗臣人麿別名栗本人麿の墓と伝えられる。7世紀後半頃、葉栗郡で郡司として善政を行い、光明寺(現存)を建立した。昭和…
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浅井古墳群
古来「四十塚」と呼ばれ、50基以上の古墳があった。県文化財指定のものは5基で、いずれも古墳時代後期の築造と考えられる。出土品は、市博物館に展示…
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有隣舎跡
鷲津幽林は若くして京都に出て勉学し、のち家(丹羽)にもどり安永年間の頃(1772~80)近隣の人々に漢学を教授したのが漢学塾・萬松亭有隣舎のおこり…
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浮野古戦場跡
永禄元年(1558)清洲城主織田信長は岩倉攻略をはかり、これに対して岩倉城主織田伊勢守信安が応戦、ここに信長勢に加担する犬山城主織田十郎左エ門信…
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馬見塚遺跡
馬見塚遺跡は縄文晩期から弥生、古墳時代にわたる遺跡で大正15年に発見された。主な出土品は雷式土器、合わせ口甕棺、単棺、打石斧、磨石斧、石皿、…
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稲荷山古墳
墳丘の規模は径40m、高さ6.64mの二段築成の方墳とされる。周溝跡は確認できない。丘上には神明社が祀られており、見晴らしがよい。 県道の1本東側…
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油田遺跡
この地にむかし真清田大神が降臨し、後年現在地に遷座したと言い伝えられている。油田の地名の起りは明らかでないが、その土地を灯明料所として真清…
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大野杁跡
江戸時代初めの慶長年間、徳川御三家の尾張藩を置くにあたり、木曽川の水を取水し大江川と結び、尾張平野の水田に水の供給をすべく、一宮の工匠原田…
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中嶋城址
中島左衛門尉宣長が居城していたといわれ、その子孫が中島蔵人として居城したが、室町末の戦乱で廃城になったと伝えられる。 中島小学校南に碑(…
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吉藤城址
織田信長に仕えた遠藤三郎右衛門の居城と伝えられる。天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、織田信雄方の砦となった。天保12(1841)年の吉藤…
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奥城址
織田信長・信秀に仕えた梶川弥三郎の居城が有ったと伝えられる。 大きな石碑(昭和34年建立)あり。 奥町西保育園敷地の園庭南側にあるため、無…
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野府城址
戦国期の城跡で織田信長の弟、織田九郎信治の居城と伝えられている。信治は、1570年、浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江国で戦ったが、少人数だった…
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黒田城跡
戦国時代からこの地にあった城で七代の城主の記録が残っている。中でも土佐20万石の大名に出世した山内一豊はこの城で生まれている。(大正6年[1917]…
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大野城跡
天正12年(1584)、小牧・長久手合戦の時、下奈良、宮後、河田の砦とともに秀吉方の砦として利用され、その後大野佐渡守等が居住したと伝承されている…
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河田城跡
天正12年(1584)、小牧・長久手合戦の時、秀吉が小牧山の徳川・織田軍に対して構築した城砦の一つであり、昭和38年に護岸工事のため湮滅した。 県道…
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重吉城跡
尾藤源内の城と伝えられる。天正12年(1584)、小牧・長久手合戦の時、徳川・織田軍の小牧山の付城として清洲と小牧を結ぶ連絡確保の役割を担っていた。…
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一宮城跡
平重盛の子孫関氏は熱田の宮司をたよりに一宮の神主となった。以後数代この地に住み、代々真清田神社の神主をしていたが、社領を守るため城を構えた…