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起宿脇本陣跡
歴史民俗資料館北隣。寛永18年(1641)起宿では人馬の通行が増え、脇本陣が設けられた。佐太郎一族が4代継承したあと、林家が享保5年(1720)から継承し…
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美濃路萩原宿本陣跡
萩原宿は、美濃路という大通りに約420年前に誕生した宿屋街です。本陣とは、将軍や藩主など位の高い人が宿泊する場所のことです。昔懐かしい風情を残…
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起宿披本陣跡
起宿の本陣、脇本陣に異変が生じた際の退避所として中島の吉田家宅をこれに当て、起宿披本陣とした。文化8年(1811)以後、紀州侯の宿泊があった。 …
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美濃路散策
美濃路は中川道の垂井宿と東海道の宮(熱田)宿を結び、大垣・墨保・起・萩原・稲葉・清須・名古屋の7宿がありました。中山道や東海道などの五街道に…
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高木一里塚
高木神社南200mの東塚跡に一里塚碑が設置されている。明治初年まで街道の両側に塚もあり、榎も残っていたという。 美濃路街道 東側(酒店隣)に…
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天神の渡し跡
野府川、五城川を合流した日光川は古川といわれ、木曽川の主流の一つだった。慶長年間(1596~1615)までここにあった渡場。後に川幅が狭められて廃…
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地宝院跡
仏教の一派として、本地垂迹説を立てて神にもつかえる修験道で、歴代隣接の神明社・板倉御裳神社を始め、付近数ヶ村の社僧を勤めたが、明治維新神仏…
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冨田一里塚
江戸時代に東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ脇往環美濃路に築かれた一里塚で、道の両側に榎が植えられた塚が現存する。 東塚、西塚とも原形を保ち…
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駒塚道道標
美濃駒塚の殿様といわれた尾張藩の家老石河佐渡守が名古屋へ参勤するために開いたのが駒塚道である。 冨田一里塚の北100m 当時のままの石製道標が…
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聖徳寺跡
戦国時代、浄土真宗の大寺院であった聖徳寺は、尾張・美濃国境の当地にあった頃、織田信長と斎藤道三が初めて会見した場所として知られている。 …
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起渡船場跡
美濃路の木曽川を渡る渡船場跡で、上流から定渡船場・宮河戸・船橋河戸の3ヶ所があり、将軍や朝鮮通信使などの通行には船を270艘以上並べて船橋がか…
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田所遺跡
東海北陸自動車道建設に伴う発掘調査の結果、古墳時代の水田跡、中世の墓地跡が検出され、三つの時代にわたる複合遺跡であることが確認された。 …
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澤井屋敷跡
小牧・長久手の戦いで家康軍に属し勇名をはせた黒田城主・澤井雄重は家康から感謝状を受けた。また、澤井家は尾張藩の家老を勤め、明治になって木曽…
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大野渡船場跡
尾張国葉栗郡大野村から美濃国羽栗郡河田島村へ通じる渡し船。万延元年(1860)までは、幕府の認める渡しとして栄え、明治以後は、渡船組合で運営を…
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人磨塚
古来河田の四つ塚の一つで、葉栗臣人麿別名栗本人麿の墓と伝えられる。7世紀後半頃、葉栗郡で郡司として善政を行い、光明寺(現存)を建立した。昭和…
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浅井古墳群
古来「四十塚」と呼ばれ、50基以上の古墳があった。県文化財指定のものは5基で、いずれも古墳時代後期の築造と考えられる。出土品は、市博物館に展示…
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有隣舎跡
鷲津幽林は若くして京都に出て勉学し、のち家(丹羽)にもどり安永年間の頃(1772~80)近隣の人々に漢学を教授したのが漢学塾・萬松亭有隣舎のおこり…
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浮野古戦場跡
永禄元年(1558)清洲城主織田信長は岩倉攻略をはかり、これに対して岩倉城主織田伊勢守信安が応戦、ここに信長勢に加担する犬山城主織田十郎左エ門信…