徳川家康の足跡を追う 歴史たび

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一宮市内で家康ゆかりの地を探してみたら…
家康が戦いの前に旗竹を2度ももらったという言い伝えの場所や、関ヶ原の戦いに勝利した後に通った道、信長の仲介で軍法を授かった寺など、意外とあるのにビックリ!
あちらこちらに残るスポットを巡り、若き家康の駆け抜けた時代の空気を感じてみませんか。

家康ゆかりの地

1 葵公園(本町二丁目)

葵公園(本町二丁目)

  • 葵公園(本町二丁目)

  • 葵公園(本町二丁目)

こちらは、一宮市役所新庁舎建設に伴い、庁舎西側に移転した「葵公園」。もともと、「新柳公園」という名でしたが、当地「本町2丁目」が家康ゆかりの「葵町」という地名であったことから、市民の要望で「葵公園」の名がつけられました。


「葵町」の由来とは…

さて、葵とは徳川家の葵の御紋と思われますが、家康とどんな関係があるのでしょうか。それは、関ヶ原の戦いの2日前の慶長5(1600)年9月13日までさかのぼります。

真清田神社

真清田神社

清須を出立した家康は一宮に入り、佐分五郎兵衛清政の屋敷で休憩。真清田神社で戦勝を祈願したそうです。その際に、清政の弟が屋敷の藪中から、旗竿にする竹をとってきて、家康に献上しました。それがよほど良い竹だったのか、げんかつぎなのか、家康はその後の大坂冬の陣に出陣する際にも、ここで旗竹を受け取ったと記録 (典拠「一宮市史(上巻・下巻),「真清田神社史」) にあります。

佐分清政と家康の関係はかなり親しいものだと見られ、佐分氏の屋敷跡には、家康が鑑賞した(手植えしたとする説も)ヤブツバキの巨木があったそうです。その場所は『尾張名所図会』にも「佐分氏宅 御旗竿藪」「御殿跡 大椿」と記されているほど。

そんな縁より、本町二丁目には「御藪町」「椿町」「御朱印地町」がつけられ、そのうち「御藪町」「椿町」が合併して、徳川家の葵の御紋と思われる「葵町」になり、昭和48年には「葵町」「御朱印地町」の名は消えて、「本町2丁目」となったそうです。

2 お成り街道(北方町北方)

  • お成り街道(北方町北方)

  • お成り街道(北方町北方)

家康にまつわる名所は、まだあります。こちらは東海道の宮宿から、中山道の垂井宿を結ぶ「美濃路」です。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに勝利した後、家康公が、関ヶ原からの帰り道に通ったことから「吉例街道」と呼ばれています。尾張藩主は、交代するたびに「岐阜御成」と称して曽根~北方渡しを通って対岸の円城寺に渡り、岐阜へ向かう重要な行事があったそうです。北方には「お成り街道」の看板があり、街道の道筋を見ることができます。

美濃路散策

美濃路散策
住所 ※ アクセスマップは「一宮市尾西歴史民俗資料館」を指しています。


3 光明寺城跡(光明寺本郷屋敷)

そしてこちらが、ツインアーチ138のほど近くにある光明寺城跡の石碑です。ここには、家康が徳川になる前、松平元康と名乗っていた時の言い伝えが残っています。

桶狭間の戦いの後、織田信長と松平元康は清須城で攻守同盟を結び、宴が催されました。信長は酔い覚ましにと元康を連れ、光明寺城へ向かいます。信長は、光明寺城そばにあった安照院光明寺の僧侶、青井意足を元康に紹介しました。青井意足は八幡太郎義家の軍法を伝える人物。当然、信長もこの軍法を手に入れたかったのですが、織田家が平家の出であるため、断られていました。そこで信長は同盟締結の礼として、源氏の出である元康に意足を紹介したのです。

元康は数日間、光明寺に滞在して軍法を授かりました(※)。この軍法を継ぐ者は「義」か「家」の名をもらうことになっていたため、今川義元がつけた名前を変えたいと考えていた元康は「元」を「家」に変えて、「徳川家康」と名乗ることにしたそうです。

(※)岡崎、浜松など諸説あります。

光明寺城跡

光明寺城跡
住所 一宮市光明寺本郷屋敷
※ アクセスマップは「光明寺保育園」を指しています。


4 浅野公園(浅野字八剱)

こちらは、つつじ祭で有名な浅野公園。浅野長政の屋敷と伝わります。

浅野長政の嫡男・幸長の娘の春姫が、家康の九男で尾張藩藩主の義直と結婚。長政の次男・長晟が家康の三女、振姫と結婚しており、長政と家康との関係は、とても深いものでした。それだけでなく、家康と長政は囲碁において実力が互角。ともに真剣に碁を打ちあう仲間でもあったようです。長政が亡くなると、家康はひどく気落ちして、大好きだった囲碁を一時期絶ってしまいました。
現在、浅野公園にはモチーフとして囲碁石が置かれています。

浅野公園

浅野公園
住所 一宮市浅野字八剱
電話番号 0586-28-9131(一宮市観光協会事務局)
つつじの見ごろ 4月中旬~5月上旬


ほかにもあるよ!家康と家臣団のゆかりの地

~ 徳川氏 ~

石刀祭(石刀神社)― 関ヶ原の戦いで壊された神社を徳川氏が修復

石刀祭は、石刀神社で毎年4月19日とその後の日曜日の2日間にわたって行われる祭礼ですが、江戸時代には、8月19日に行われていました。山車と頭人行事が複合する形を残している貴重な祭礼です。
関ヶ原の戦いでは、徳川氏が石刀神社に陣営をしき、社殿等が壊され神社が荒廃したため、徳川氏の命により修復工事が行われました。その奉祝のため山車・馬を奉納したことにより、石刀祭が始まったといわれています。

石刀祭 イベントページ


~ 長谷川秀一 ~

長谷川秀一旧居跡 ― 家康を接待し上方見物の案内をした

長谷川秀一は、信長の側近で、数々の奉公職や検使などを務めました。天正10年(1582年)、家康一行は信長の本拠地安土を訪れました。秀一は接待を命じられ、上方見物の案内も務めました。しかし、堺滞在中に、信長が本能寺で襲われたため、家康らと伊賀越えで熱田まで逃れました。

長谷川秀一旧居跡

長谷川秀一公旧居跡
住所 一宮市北方町北方字東渡り58-2(屋敷跡)
〒493-8001  一宮市北方町北方字宮浦42(石碑)


~ 澤井雄重 ~

澤井屋敷跡 ― 小牧・長久手の戦いで戦功をあげて家康に感謝される

小牧・長久手の戦いで家康軍に属し勇名をはせた黒田城主・澤井雄重は、家康から感謝状を受けたという記録(典拠「木曽川町史」)が残されています。また、澤井家は尾張藩の家老を勤め、明治時代には木曽川町の初代村長となった名家です。

澤井屋敷跡

澤井公屋敷跡
住所 木曽川町黒田山

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