生涯を絵画に捧げ名誉市民である女流洋画家・三岸節子(旧姓:吉田)。その功績を讃え、生家跡に美術館が建てられました。節子の思い出が詰まった美術館を巡るポイントをご紹介します。
知らないの? アートってすごく面白いんだよ。
「小さな美術館だけど、なんか面白い」
―そんな気になる存在が、旧尾西地区、起(おこし)にある「一宮市三岸節子記念美術館」です。
ある時は、タップダンサーが軽快に床を鳴らし、またある時はお化けの傀儡(くぐつ)が空を駆ける。特別なことがない日でも、子どもたちがエントランスのテーブルで好きに絵を描き、近所のお年寄りがコーヒーを飲みにやってくる…。静かではあるけれど、停滞しておらず、美術館ってこんなんだっけと思わせてくれるような身近に感じられるアートスペースです。
▼喫茶コーナー。開館当初はなかったスペースですが、ゆっくりコーヒーを飲むところが欲しいという要望から造られたとか。美術関係の本を読みながら、挽きたて淹れたての本格コーヒーが楽しめます。
▼子ども向けの美術プログラムも力を入れている同館。エントランスには、毎回コレクション展などのテーマに関係した子ども向けの体験コーナーを用意しています。
▼ミュージアムショップの大人気商品といったらこれ。東京・世田谷にある洋菓子店「ロワール」の看板商品「ブランデーケーキ」です。包装紙には節子のデッサンがちりばめられており、ロワールとここ、北海道の三岸好太郎美術館の3か所でしか買えません。
その他にもおすすめしたいのは、節子のコレクション展と企画展です。
ミュージアムにおける企画展とは、その美術館の色であり、学芸員さんの腕の見せどころ。ここでは、その時々の興味深いアーティストやテーマを選定しています。
企画展のテーマは、三岸節子に関係のあるヒトやコト、と共通項を作ってはいるものの、最初にあるのは、学芸員さん自身の興味なのだとか。
企画展だけのオリジナル和菓子を作ってみたり、ライブペインティングのイベントを行ったり、担当学芸員さんが知恵を絞って、「絵だけにとどまらない」面白いプログラムに仕上げているので、ぜひその世界観に飛び込んでみてください。アートの広がりをきっと体感できるはず。
女流洋画家・三岸節子ってどんな人?
足が不自由で何が悪い
さて、この美術館の主役は、生涯を絵画に捧げた情熱の女流洋画家・三岸節子(旧姓:吉田)。
彼女は、1905年、まさに美術館のあるこの場所で、10人兄弟の四女として生まれ育ちました。吉田家は愛知県でも5本の指に入るほどの資産家で、ここには当時としては珍しいレンガ造りの毛織物工場が建っていたそうです。
そんな裕福な家庭に生まれながら、彼女は、足に先天性の障がいがあり、周囲から偏見の眼を向けられていました。親族の集まりごとがある時などは、世間体を気にした親から、土蔵や女工の寄宿舎で潜んでいるように命じられたといいます。
▼美術館正面に建つ三岸節子の銅像。足が不自由だったため、ステッキを持っています。
▼美術館は、かつて敷地内にあったという、のこぎり屋根の織物工場をイメージして造られています。
▼敷地に建っていた建物はすべて取り壊されましたが、節子が隠れていた土蔵はそのまま遺(のこ)っていました。ここは、彼女の愛着の品々を展示する建物として活用されています。
逆境も力に変えて
女学生の頃には、世界恐慌のあおりで実家が没落。しかし彼女は、この不幸を嘆くことなく「一家の苦しみを何者かになってとりかえそう」と誓います。
目指したのは、あろうことか「洋画家」でした。女性洋画家がほぼ存在しない時代ですから、当然、両親には反対されましたが、ハンガーストライキをしてまで、その意志を貫きます。
自画像にこめた想い
19歳の時には、新進気鋭の画家・三岸好太郎と結婚します。この時に描いたのが、常設展示室の正面に展示されている「自画像」です。(これはぜひともチェックを!)
赤い着物の若々しさの中に、厳しい眼差しを浮かべる節子の表情は、人生の荒波に立ち向かう覚悟と鋭敏な感受性の響きをたたえ、正面をまっすぐに見据えています。この瞳が語るように、その後の節子は、夫・好太郎の奔放な女性関係に苦しめられたばかりか、貧困の中で3人の子育てをし、さらに義母と義妹の看病に追われながらの生活を送っていました。
29歳の時には、好太郎が病死。生活のため、雑誌の挿絵やエッセイもこなし、よく売れるからと花の絵などを多く描いていたそうです。
人生と対となる画風の変遷
節子は生涯を通じて、自身の努力ではどうにもできないような困難に直面し続けましたが、どんな時もそれに屈することはありませんでした。この反骨精神こそが、彼女の情熱の源となり、突破口になっていたのでしょう、彼女の絵は声なき魂の叫びとなり、成熟していきます。
例えば、節子は女性洋画家として奮闘していた30代、マチスやボナールなどに影響を受けて、明るい色彩の静物画を描いていました。あまりに光あふれる軽やかな静物画なので、制作年が戦時中だったことに驚かされたほどです。
時代の空気を読むのに長けている節子は、49歳の時に初めて渡仏して、憧れだったフランス画壇の行き詰まりをいち早く感じ取りました。帰国後は日本人というアイデンティティを強く意識し、埴輪や壺といった原始的なものの普遍的な力強さに魅了されるようになります。ここからの節子の絵は、大地のようなおおらかさと時空を超えていく歴史の連なりを感じさせるものになり、凄みを増していきました。
▼土蔵展示室では、この時に節子が収集した埴輪やエジプト・中南米の骨とう品を展示。節子の描いた絵と実物を比べてみてください。
そして59歳。神奈川県大磯で、海を望む丘に暮らし、畑仕事と絵に没頭しながら、母でも女でもなく、ただ人間として生きることに向き合います。その頃の絵には、常に太陽と月が大地と海を照らしていました。
▼土蔵展示室では、この当時のアトリエの様子が再現されています。
しかし63歳から84歳までは、風景画を追求するために、フランスの片田舎にこもってひたすら格闘の日々を送ります。世間ではとっくにおばあちゃんの年齢となっていますが、絵に関しては、丸くなるどころかますます研ぎ澄まされるばかり。とにかく、そのひたむきさは、すごいです。
節子の絵は、感情的な躍動感に富み、まさに彼女の人生そのものです。シンプルな線で描く抽象的な風景画でさえも、彼女の挑戦や情熱が色彩となって放たれ、みずみずしい感情とともに観る者をその場に連れていきます。花を描いても、花というより燃え盛る魂のようであり、言い知れない悲しみのようでもあり、まさにそれらは彼女自身の肖像画のようでした。
▼土蔵展示室より。色彩の画家と呼ばれた彼女のパレットは、絵具が幾重にも盛り上がっています。
「さいたさいたさくらがさいた」という絵は、ぜひ美術館で対面してほしい作品です。1998年の三岸節子記念美術館の開館に合わせて、それにふさわしい作品をとこれまでの画業の集大成として描かれたもの。常に前進してきた節子のクライマックスが、93歳のこの作品であることが、とても彼女らしく思えました。
何者かになり、戻ってくると誓ってから77年。彼女の魂がこの作品に宿り、生まれ故郷に戻れたことに、ただただ安堵するばかりです。
▼節子は、運河と石造りの街並みをとても気に入っていました。彼女の風景画のモチーフとなっている、ヴェネツィアの運河をイメージして、美術館には水路が通っています。
彼女の絵の世界は、年に4回入れ替えられるコレクション展で観ることができますので、展示室正面の「自画像」からスタートして、左から右へと彼女の人生をたどるようにご覧ください。そして、何かを感じたら短い言葉に思いを託して「短歌ポスト」へ。ぜひ節子との感性の響きあいを楽しんでくださいね。
三岸節子記念美術館
住所 | 一宮市小信中島字郷南3147-1 |
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営業時間 | 9:00~17:00 (入館は16:30まで) 【定休日】 月曜日(祝祭日・振替休日の場合、その翌日) 祝日の翌日(土曜・日曜日の場合、開館) 年末年始(12月28日~1月4日) 展示替え等による整理期間 |