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《住所》

一宮市千秋町浮野字海道

 

《車でのアクセス》

県道鹿ノ子南小淵線「浮野」交差点北300mの案内看板を東へ入る

 

《駐車場》

なし

 

 永禄元年5月28日、二千余騎をひきいた清洲城主織田信長は、岩倉城主織田伊勢守信安を攻撃のため浮野へ陣を進めた。 

 この日は小競合いの瀬踏み程度に終ったが、つづいて7月12日犬山城主織田十郎左衛門信清が千騎ばかりを従えて馳せ加わったので総勢三千余騎が浮野を中心に争い、死闘二刻に及び首級九百余を討ち取った。これを浮野合戦と呼ぶ。山内一豊の兄・十郎もこの戦いで討ち死にをしたとされる説が残っている。

 

 

浮野合戦場址の碑

 7月12日の合戦で討ち死にした戦没者の総数は九百余名に達したが、このうち主な武将を挙げると、信安の家老の福田大膳正は北方から攻めてきた犬山の織田信清軍を五坊野に迎え、陣頭に立って奮戦したが深手を負い、血刀を杖に五明にたどり着き、一軒の農家に転がり込んだが、その夜に息を引き取ってしまった。また、岩倉方の武者奉行侍大将前田右馬允(加賀藩主前田利家の叔父)とその子源介、土佐藩主の山内一豊の兄の十郎たちも、この戦で討ち死にをした。

 豊臣秀吉の御台所ねねの父である林弥七郎は一宮市浅野村の住人で、信安の家臣のうちで随一の弓の名手であったが、旧知の間がらである鉄砲の名手橋本一色(信長の鉄砲指南役)とわたり合い、鉄砲と弓で相打ちとなって双方共に討ち死にをしたとされている。

 

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