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一豊の生涯

−出生から流浪まで−

山内一豊は、天文十四(1545)年、岩倉織田氏の家老をつとめ、尾張國黒田城を預かっていた山内盛豊の第二子(幼名を辰之助)として尾張の国に生まれ、長男の十郎、弟の康豊、そして三人の女姉妹がいたとされます。一豊の少年時代、尾張の織田家は諸派に分かれて抗争を続けており、最大勢力を誇っていたのが織田信長でした。弘治三(1557)年七月、尾張黒田の居城が夜討ちに遇い、父盛豊が手傷を負い、長兄十郎は討死したとされ、当時13歳であった辰之助は、母や弟妹達とともに家臣に救われ難を逃れました。永禄二(1559)年、織田信長の岩倉城攻めにより父盛豊が死去してからは岩倉も追われ、織田浪人として尾張を始め美濃や近江を流浪し、山内家の親戚に身を寄せては転々としたといわれています。

−信長家臣時代−

『山内家史料』にも永禄四年から天正元年の史料が欠けているため明らかではありませんが、永禄十(1567)年から元亀年間に至る間に桶狭間の戦い以後頭角を現してきた織田信長に仕えるようになったといわれています。『一豊公御武功御伝記』などの書物に、次のような武勇が伝えられています。元亀元 (1570) 年、朝倉氏と戦った金ヶ崎城の戦後の天正元(1573)年、越前刀根山の朝倉追撃戦で朝倉家でも剛勇の誉れ高かった三段崎勘右衛門を組討の末に倒し、首級を挙げました。勘右衛門は強弓の名手であったとされ、一豊は左目尻から右奥歯にかけて矢が貫通する傷を負いながらも勘右衛門を討ち取り、劇的な殊勲を挙げました。これらの功績により天正元 (1573) 年、秀吉に与えられた領国の一部である近江唐国(滋賀県虎姫町)四百石を信長から与えられ領主となり、これが戦国武将山内一豊としての始まりでした。

−秀吉家臣時代−

天正五(1577)年頃には信長の直臣から羽柴秀吉の麾下に入り、鳥取城攻めや高松城攻めなど、多くの戦に参加し、播磨有年(兵庫県明石市)七百石、播磨印南郡五百石を与えられています。天正十(1582)年、本能寺の変で信長が倒れると、跡を継いだ豊臣秀吉の天下取りのために働く事になり、小牧長久手の戦いが終わった頃には、近江長浜城五千石に入りました。しかし、天正十三(1585)年、近江地方を襲った大地震で一豊夫妻の娘・与禰が崩れた建物の下敷きとなり圧死するという出来事がありました。秀吉が天正十八(1590)年の小田原征伐において北条氏を滅ぼし、天下統一を果たし、一豊は同年九月二十日、正式に相良、榛原三万石余、佐野郡内二万石、計五万石を領地すべき朱印状を得、掛川城に入城しました。掛川は秀吉にとっても天下統一を強固なものにするために東西勢力の真ん中に位置する戦略的拠点です。この掛川をおさえ徳川を牽制するには、今川・徳川・武田の兵乱によって荒れ果てた掛川を軍事的、政治的に強固な拠点につくりあげる必要がありました。そこで秀吉は、伏見城建築に携わった経験のある一豊を配置し、大規模な城郭と城下町づくりを指示したのです。

秀吉の命を受け赴任した一豊は、徳川おさえの基盤づくりとして、掛川五万石の規模にしては大規模な本格的都市計画を実行します。それまでの朝比奈氏や石川氏時代の城郭に大規模な修築を施し、天守閣の築造、総堀の完成など、近世城郭として城の大規模化を図りました。一豊の計画は城郭だけにとどまらず、城下町の整備も大々的に取り組みます。この頃、秀吉が行った兵農分離や兵商分離発令により、人々の生業が定着した時代で、これに従って職業別に町割りを行って城下町を形成しました。その名残りは現代の町名にも見ることができます。

また天正十九(1591)年には、大井川下流の志太・榛原を洪水の害から守るため、駿府城主の中村一氏と協力して大井川の治水工事に着手し、相賀赤松山を切り開いて大井川の水路を変える大土木工事を行っています(天正の瀬替え)。

   −家康に忠節を表明−

出世した一豊は豊臣政権下で秀吉の配属を離れ、中村一氏や堀尾吉晴らと共に関白秀次(秀吉の甥)の補佐役をつとめました。しかし、文禄二(1593)年、淀君に実子秀頼が生まれると、秀吉は秀次の素行不良を理由に切腹を命じ、秀次一派に対しても徹底的な静粛が行われ、当然、補佐役の一豊にも火の粉が飛び、朝鮮行きを命じられたりしていますが、なんとか難を逃れたようです。このように晩年、その奇行から家臣の信望が薄れた秀吉でしたが、慶長三(1598)年八月に没すると、世はふたたび権力争いの動きが高まり、ここで天下取りに動き始めたのは秀吉自身が危惧したとおり徳川家康でした。関ヶ原の合戦前の慶長五(1600)年7月、秀吉の後継を狙う石田三成は、家康の東進に参軍した諸将を牽制するため、諸将の妻子を大阪に監視しながら豊臣家の反家康勢力を束ね、これに対抗しようとしました。一方、そのころ掛川城の一豊は、上杉景勝討伐のために大阪から東へ下る徳川家康を迎えていました。その夜、監視下に置かれ一時は自害をと決意していた妻千代から、自分の身はどうなってもよいから家康に忠誠を尽くすべきことをしたためた密書が陣中にあった一豊のもとへ届きました。文は文箱に入れられ、文箱には封印が施されていました。一豊は封を解かず、これを家康に献上しました。箱の中に入っていたのは三成陣営に属する増田長盛、長束正家が連名した大阪方への勧誘状と妻の添え状であったと伝えられています。妻を見限る覚悟で家康への忠誠を誓い、しかも開封せずに家康に手渡すという行為で、自分に二心が無いことを表明したのでした。慶長五(1600)年7月25日、千代の文を見た家康はついに三成が動き出したことを知り、西上すべく諸将の意見を聞くため小山軍議が開かれ、この席上で一豊は、進軍経路上に位置する自分の掛川城を家康のために明け渡すと公言しました。これにより軍議の流れが決まり、参加していた諸将も家康に味方する流れとなりました。
 また、一月前の慶長五年6月、一豊は伏見から東海道を東下して江戸城に向かう家康を、小夜の中山にある久遠寺に茶亭を建てて饗応しています。秀吉の死後、権力争いを窺う秀吉家臣諸将に対して、一豊は早くからポスト秀吉は家康であると言動に含めながら、権力の流れを家康に運ぶ手助けにもなっていたのでした。関ヶ原の合戦の後、家康が秀忠と諸将の功績を論じたとき、「山内対馬守の忠節は木の本、其他の衆中は枝葉の如し」と庭前の木を指して話したと伝えられているとおり、家康に一豊の行為が深く刻まれたことは間違いありません。こうして家康が天下統一を成した後、一豊は土佐二十万石の大大名へと抜擢され、念願の一国一城の主人となったのです。

    −晩年の一豊−

一豊の土佐入国は簡単には進みませんでした。土佐の国の旧領主・長宗我部氏の遺臣(一領具足)への対応に手を焼く事となりました。遺臣たちが長宗我部氏が本拠地としていた浦戸城に立てこもって抵抗する浦戸一揆が起こり、まずは先立って弟の康豊を入国させて一揆方270人余を斬首。翌慶長六(1601)年一月、鎮静した土佐に入国しました。 一豊が土佐に入国してまず行ったのは、後に年中行事となる馬の駆初めや、相撲大会を催して民衆の不満をなだめることでしたが、相撲見物に来た一揆の残党70人余を捕らえて処刑するなど、飴と鞭を使い分け、巧みに国の統治につとめました。それでも民心はおさまらず、滝山一揆の鎮圧などに苦慮することになりました。一豊は土佐に入国して五年後の慶長十(1605)年9月20日、61歳でこの世を去り、高知の真如寺山に葬られましたが、妻千代の死後、京都の大通院に移されました。実子はなく、家督は弟の康豊の子、忠義に継承されることになりました。大通院の堂内には夫婦墓が並んでいます。大名の夫婦墓はきわめて稀なことで、夫妻の仲の良さを暗示しているようです。

 

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